• Yoko Yoshimoto

「ネオナチ思想からの逸脱」

最終更新: 4月17日



・ハイディ・ベネッケンシュタイン(24)は、ネオナチ思想の家庭で育った。彼女は、ネオナチの教育を受けたキャンプ場を訪れ、一枚の写真を破り捨てた。そして、そこからの縁を切った。これは、ネオナチから改心した彼女へのインタヴューである。

あなたが、最後に父親と話したのはいつですか?

随分と前のことです。15才の時でした。私にとっては、幸運なことでした。

すると、9年前ですね。それ以来、あなたは父親と交流がないのですね?

はい。私は当時、喧嘩をして家を飛び出しました。そして私は、父とはもう会わないだろうと、心に決めていました。私は長いこと、父の元で起こることが恐怖でした。だから、飛び出したのです。そして、終わったのです。父と話すことなど、全く無意味なことです。多くのことが起こりすぎました。

あなたは、ネオナチ主義の家族の元で、とあるミュンヘンの村で、成長しました。あなたの父は、税関の役人で、ナチ政権のユダヤ人大量虐殺や、東プロイセンの行いを覆い隠し、そしてあなたを、青年に国粋主義を教えるキャンプ、「Heimattreuen Deutschen Jugend(ドイツ国家忠誠青年団とでも訳そうか、、、以後HDJと表記)」に送りました。あなたの子供の頃の思い出を教えてください。

私の父は、しつけに厳格でした。私たち4姉妹は、間違ったことをしたり、言ったりしないように、常に父の顔色を伺っていました。食事の時も、聞かれたこと以外は、話してはいけませんでした。もし、私たちがうっかりドアをうるさく閉めたのなら、罰として10回、静かにドアを閉める行為をさせられました。それと、壊れかけた、私が子供の頃よく落ちた階段を10回、上り下りしなくてはなりませんでした。私の父は、私たち姉妹が競って規則を守ることを楽しんでいました。

あなたたち姉妹は、どのような態度で過ごしたのですか?

私たち姉妹は、出来るだけ他人のせいにしようとしました。私が学校の運動会で、フィリピン人の友達とチームを組んで、手をつないで競技をしました。姉たちは、それを父に話しました。私は、大目玉を喰らいました。なぜ、フィリピン人と関わり合うのか?と。すると、他の姉妹たちは、私への罰として、私と口を聞かない行動を自発的にとりました。そうすることで、父が喜ぶことを知っていたのです。父はその行いを褒めました。

いつ、あなたの家族が、他と違うことに気がつきましたか?

かなり早い時期です。毎朝、プロシア的な日常がありました。壁に、ルーネ文字(古代ゲルマン文字)が施された壁掛けがありました。私たちは、国粋的なスローガンの刺繍を付けていましたし、書庫には、ナチ帝国の本がたくさんありました。私は早くから、両親が他と違うことに気づいていました。特に、父親の方です。幼稚園で行われたキリスト降誕劇のことです。私はブロンドヘアーだったために、天使の役に選ばれました。それを知った父は、気が狂った様に幼稚園に電話を掛け、私が無宗教であることを抗議しました。当時の私は、何のことか理解できませんでした。でも、年を経るに従い、私の父のイデオロギーが、強く私の生活に入り込んできたのです。

具体的には、どんなことですか?

例えば、私たちが8学年だった時、学校の研修として、ダッハウにある強制収容所を訪れた時のことです。その事件については、学校で私に批判的な質問をするように、父が私に命令しました。

例えば?

彼は一枚の写真を示して、この焼却炉は、資料目的で後になって合成したもので、実際にはなかったものだと。それを、私が学校に抗議するようにと。

あなたの家族が、すべて特別に教育されているのではないかと疑って、他の親たちや、先生たちは、問い合わせたりはしなかったのですか?

全くしませんでした。私の父は、先生に対して、とても支配的な態度をとりました。そのことに、先生たちは怯えていました。私が3学年の時、ドイツの歌曲は、3節で構成されているものだと、先生に間違いを指摘しました。私は次の日、先生にある歌の本を持って行きました。先生はそれを見て、私にそれを無言で返しました。それは、民族主義的な歌の本でした。子供の私に説明が出来なかったのだと思います。

あなたが、信頼できた友達はいましたか?

はい。私は、親友には、すべてを話しました。本当は、HDJのキャンプの話などは、他人に話してはいけないと、父から言われていました。しかし、そのような秘密を、子供が守れるはずがありません。親友は、私が体験した話をしても、理解できませんでした。彼女にとって、全くミステリアスな事だったのです。

あなたが7歳の時、父親がHDJのキャンプに預けました。どうでしたか?

私にとって、そこは地獄でした。最初、私はホームシックにかかりました。ただただ家に帰りたかった。全く私に合わないことを植え付けられましたし、やがて、右翼思想に反抗的にもなりました。すべての行動がコントロールされていました。7時に起床し、朝の運動、朝食前のテントの清掃、、、もし、出来ていなければ、私たちは、罰として腕立て伏せをさせられました。国旗掲揚の際には、直立不動で30分、凍るような寒さの中でも、立っていなければなりませんでした。

その他には?

ある講演の話が忘れられません。国が崩壊するXデーに向けて、どのように準備するかについての講演がありました。食料備蓄、寝袋の数を揃えるなどのことを、相談します。そして、いつも繰り返し、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル氏(第二次大戦で活躍した、ナチ国防軍のエースパイロットであり、HDJの名誉会員でもあった)のことを崇めました。定期的に、彼についての講演もありました。同様に、ドイツ初の女性パイロット、ハンナ・ライチュ氏、そして、ドイツ女性作家で、ヒトラーを尊敬したアグネス・ミーゲル氏のことも崇めました。また私たちは、このキャンプで使われたテントのことを、Führerbunker(ヒトラー総統の防空壕)や、Germania(世界首都ゲルマニア)と、呼んでいました。しかし、私たちのキャンプは、警察のお咎めから逃れるために、町から隔離されていました。私たちのキャンプは、ボーイスカウトか、あるいは、ドイツ教会青年団と説明されていました。

子供達は、そのキャンプで何が行われていたか、理解していたのですか?

HDJの言わんとすることは、私たちには伝わっていました。私たちは、一枚の板の上に、1937年に定められたドイツ帝国の境界線を示した地図を描いたことがあります。そして、ある少年が、そこに黒の鉤十字を飾りました。誰一人として、それを不快には思いませんでした。

そのキャンプに参加することは、子供達にとり何だったのでしょう?

私たちの多くは、極右思想が根付いた世代出身の家庭から、ここに来ていました。そのほとんどが、教養ある市民階級でした。多くの子供達は、ギムナジウムに通っていました。私は一度、ベルリンのある下層階級の家庭に泊まりに行った時、すぐに違和感を感じました。HDJでは、極右のエリートを育成することが、何より重要だったのが分かりました。

詳しく教えてください。

つまり、私たちが将来、その運動の指揮をとるのが目的です。たとえ少女でもしっかりと教育されます。たとえ、その少女のほとんどが主婦になっても、母の役割の中で、そのイデオロギーが伝承されるからです。

あなたは、母親からどう影響されましたか?

私の母は、とても従属的でした。彼女は、ただ単に協力していただけです。なぜなら、父とあまり話をしなかったから。彼女が政治犯の手伝いをしたとは、私には思えません。なぜなら、彼女は父と離婚したからです。その後も、母からは、そのような雰囲気は感じませんでした。

あなたの両親が別れた時、あなたは9才でした。あなたは母親の元に引き取られました。なぜ、あなたは極右組織に残ったのですか?

母とは葛藤がありました。私は反抗期でしたし、母も私に遠慮していました。やがて、思春期に差しかかった頃、私は父の元へと行きました。父は大喜びで迎えてくれました。その時から、父から以前禁止されていたことが、私は許されました。ステレオで音楽を楽しんだり、携帯電話を持ったりすることが出来るようになったのです。私にとって夢の様でした。しかし、15才の時、私は再び母の元へと引っ越しました。やがて、一軒の持ち家に住み始めました。

他の3姉妹は、どうなりましたか?

一番下の妹は、落ちこぼれていました。勉強についていけなかったのです。上の姉は、すでに引越ししていて、今日まで父の側についています。もう一人の姉は、里親に出されました。それ以上のことは、ここでは言えません。

あなたは、その後も極右仲間と関係していました。なぜですか?

はい、しかし、HDJにいるのではなく、その仲間と行動していました。私たちは、あるコンサートに行った時、そこで警官や暴力的なパンク族とやりあいました。スカッとしました。HDJに所属している時よりも、とても開放感がありました。そこで、私はオープンに意思表示できました。

他方、あなたは、男のメンバーに混じって、NPD(ドイツ国家民主党;ネオナチ思想を掲げる極右政党)にも関わっていましたよね?

その時の私は、ひねくれていました。18歳まで私は、ナチ思想だけしか知りませんでした。NPDの地方連盟は、社会から脱落した落ちこぼれの集団で、連中はいつも、悪態をついていました。そこで、私は1度、選挙活動をしました。歩道で、受付テントを立ててする活動です。私は、NPDの看板娘でした。しかし、私たちのコーナーに興味を示す者などいませんでした。その時の私は、NPDのチラシの中身を、全部理解していませんでした。しかし、いま考えれば、それが私にとって、革命への小さなステップだったのです。

右翼組織には、限られた女性しかいませんよね。あなたは、どんな役割をしていましたか?

私が思うに、私は他の女性たちからは、特別視されていたと思います。私は、右翼思想の中で育ちました。つまり、右翼思想の友人を経由して、ここに入って来たのではありません。一方、他の女性たち大半は、取り巻きでした。つまり、仲間内から紹介されて入ってきていました。私は、鼻が高かったです。私は、幼少の頃からHDJのイデオロギーを教え込まれてきています。私は、優れているのだと確信していました。

極右の世界では、暴力行為も含まれます。あなた自身も16歳の時に、1人のネオナチ権力者の葬儀を取材しに来ていたカメラマンを殴っていますね。どのようにして、それは起きたのですか?

私はそれに後悔しています。そのカメラマンは、反ファシズムの立場をとっていて、この葬儀に対しても、全く批判的な目で取材をしていました。そこには、全ドイツから、その当時の主要なネオナチ幹部が集結していました。ウド・フォイクト氏、クリスティアン・ヴォルヒ氏、シュタイナー・ヴルフ氏などです。彼らと共に、私は墓の前に立っていました。私は手にNPD青年団の旗を持っていました。私たちが、墓地から立ち去ろうとした時、そのカメラマンが、写真を撮るために、私たちの前に駆け寄ってきました。私と2人の仲間は、彼を押し倒し、最終的には30人で彼を襲いました。私は、拳で彼を殴り、両足を蹴飛ばしました。私は気が狂っていました。私にとって、彼がどれだけ負傷しようと、関係ありませんでした。いや、むしろ彼を負傷させても良いと考えていました。数日経って初めて、私は正気を取り戻しました。私は我を失っていました。今考えれば、その時の私は、まるで別人であったかのようです。

それで、そのカメラマンは、どうなりました?

彼は、肋骨を数本折り、打撲傷を負いました。しかし、命に別状はありませんでした。警察は、私を尋問に召喚しました。しかし訴追されませんでした。

彼は、今もミュンヘンで、ジャーナリストとして働いています。あなたは彼に会いましたか?

はい、よく会っています。彼は親切な人です。当然、そのような被害を受けるに値しない人です。私は、彼に謝りました。そして、彼も許してくれています。私は彼に、計り知れない敬意を払っています。

あなたは、その時期すでに、右翼組織の中でシンガーソングライターをしていた、フェリックス・ベネッケンシュタイン氏と関係を持っていました。あなたはその後、彼と結婚をし、一人の子供を設けました。あなたは、2人で脱退を決めたのですか?

それが、最大のきっかけであったと、よく人は言います。けれど、私にとって、それが決定機ではありませんでした。ここにいることが、間違った方向に行くのではないかと考える瞬間は、いつもありました。男性たちが、右翼思想の名の下で、家庭を小さな帝国の小部屋に仕立てて、妻子を洗脳し、傍若無人になって、アルコール漬けになっているのを見ていましたから。果たしてそれが、ナチスのイデオロギーに則しているのだろうか。私がその思想に疑いを持つまで、長い時間がかかりました。最初私は、フェリックスと一緒に、他の仲間たちの悪口を言っていました。やがて、中傷を続けていくうちに、この極右シーンの背景を考えるようになりました。そして、私が17歳で初めて妊娠した時、気がつきました。ちょっと待って!私はやめなければならない!変わらなければならない!と。そこまで辿り着くまでに2年掛かりました。

夫婦一緒に脱退するということは、とても珍しいことです。それは、簡単なことでしたか、それとも大変なことでしたか?

両方です。私たちが、お互い再び戻ろうかと、考えた瞬間もありました。最初は、フェリックスから言い出しました。その時、私は言いました、「行っちゃダメ!これは大事なことよ」と。彼の歌う、極右を高揚するCDが発売された時、彼は再びその世界に足を踏み入れました。私はその度に阻止しようと努めました。そこから抜け出す決定的な瞬間は、フェリックスが、一人のネオナチ党員と殴り合いの喧嘩をして、警察に5ヶ月間、拘留された後のことです。フェリックスは、自分がこの世界では好ましくない人物だと悟ったのです。共同での脱退は、基本的に簡単だと思います。すべてをお互いに相談することが出来るからです。一人では、それがなかなか出来ません。大抵の脱退者は、それがネックだと思います。友達もいない、趣味も持たない、週末の反デモにも参加しない。私たちはそれが出来ました。

あなたたちは、仲間たちに脱退したいという意思を隠すことが出来たのですか?

それが大きな問題でした。私たちは、まず嘘をついたり、あるいは間違った噂を流したりして、グループ活動から距離をおきました。そして私たちは、職業訓練を受けました、フェリックスは、雇い主に、政治的な活動をしないことを説明し、それが受け入れられました。その間にも、仲間たちから繰り返し、誘いの電話が掛かってきました、私たちは、携帯番号を変えました。それでも、仲間は、新しい番号を突き止めました。私たちは、彼らから遠のくための言い訳を、いつも考えなくてはなりませんでした。

どのようにして、あなたたちは正式に脱退したのですか?

フェリックスが出所した時に、私たちは、脱退支援組織 ”Exit” と、コンタクトを取りました。私たちは、新しい住まいを探しました。私は、中等教育卒業資格を取り、職業訓練校に通いました。フェリックスも社会復帰を望みました。私たちは、新しいスタートを切ることが大切だと、気がつきました。しかし、支援組織 “Exit“ は、ベルリンにあって、ミュンヘンの人々には、あまり知られていませんでした。いつでもやり直しが効くことを、自分たち体験を元に、若い世代に伝えるという必要を、私たちは持ちました。そこで、団体を設立して、バイエルン州の脱退者の支援をすることを決心したのです。もう後戻りは出来ないと心に決め、私たちは、記者会見に臨むことにしました。

脅迫されたことはありしたか?

はい。私たちの支援組織は当初、脱退者のためのホットラインを作りました。私たちのかつての住まいの前で、ある時、酔ったナチ党員が、脅し文句をまくしたてたり、ある朝は、家の壁に鉤十字とスローガンが掲げられたりしました。私たちは、彼らと戦いました。私は一度、1人のナチ党員と、市電の中で出くわしたことがありました。彼は、私に密着して来ました。私は恐怖を感じました。また、こんなこともありました。毎晩、家の呼び鈴を押されるのです、それも数週間にかけて。犯人は、かつての同僚でした。彼は、ペギーダ(西欧のイスラム化に反対する欧州愛国主義グループ)に属していたことを後で知りました。

どのように、あなた方は対処したのですか?

当然、冷静に対処しなければなりませんし、実際にそうしました。私たちは、自分たちの住む場所は、自分たちで守ると覚悟していましたから。最初私たちは、警察の保護を頼りました。警察は、その当時、馴染みのナチ党員を訪問しては、もし私たちに何かが起こった場合、誰がやったかはすぐに分かるのだと、警告してくれました。警察との連携は、今も私たちは密に取りあっています。

もし、あなたが、右翼組織の構成員を見たのなら、かつての同僚と分かりますか?

はっきりと。とりわけ、デモ活動の際には、私は多くの知っている顔を見ます。そこでは、かつてのHDJのメンバーが活動しています。彼らは、NPDのメンバーと常に重なっています。メクレンブルク・フォアポメルン州の極右系の移民たちのほぼ半数は、古いHDJのメンバーです。

彼らが、極右のエリートですか?

はい。HDJの構想は、そこから生まれました。それは、悲しいことです。より新しい組織が育ち、地下組織全体の活動が活性化します。右翼活動は、禁止すべきです。それは全くばかげたことです。私たちが支援組織を立ち上げたのも、それが根拠です。彼らの活動を、いかに困難にさせるかが大切です。


先日の選挙で、AfD党が初めて、右翼ポピュリストとして議席を取りました。あなたは、この国の右傾化をどう見ますか?

どのくらいオープンに、人種差別が主張され得るのか、そして、今後どこまで、社会に受け入れられるのか、ガウラント氏(AfD党副党首)とヘッケ氏(AfD党のチュールリンゲン州代表)が、再び勢いづくのか、私は憂います。社会は麻痺していると、私は感じます。人々は、このことをノーマルに、あるいは、なお、面白がって捉えているようです。なぜなら、彼らは、今の政治から挫折感を味わっているから。これは、憂慮すべきことです。

それは、将来どこへ向かうと、あなたは思いますか?

極右グループは、今こう言うでしょう、「古いシステムは崩壊する、Xデーは、近い。見てごらん!私たち市民が、それを成し遂げる。やがて、私たちは権力者になる」と。そのことを、私たちもかつて教化されました。今回はそれで、難民・移民に反対する票は、焚き付けられました。だからこそ今、それに対抗すること、そして、民主主義のために戦うことが、大切なのです、

ミュンヘンでは、NSU(国家社会主義地下組織;ドイツ極右テロ組織)の裁判が行われています。あなたは、それに興味を持っていますか?

少しは。特に、被告人のほぼ誰もが、NSUの思想から全く離れていないことに。被告人のラルフ・ヴォールレーベン氏は、筋金入りのネオナチ党員である弁護士、ヴォルフラム・ナラート氏を雇いました。彼はかつてのHDJ会員でもあります。この全く、隠れようとしない者たちを、私はとても極端に感じます。

あなた自身がNSUに近かった2008年に、NSUで爆弾を調達したとされ、告訴された彼と一緒に、あなたはキャンプファイアーをして楽しんでいますね。

はい、それはイェナにある褐色館での小さなお祭りでした。30人の党員達と私たちは、キャンプファイアーをして、ビールを飲み、楽しんで過ごしていました。私は彼を、奇妙に感じていました。繰り返し彼は、炎が3mほどになるまで、薪を火の中に投げ入れていました。正気でないように見えました。

あなたその当時、その同僚達が、連続殺人を起こすと考えていましたか?

いいえ、全く私には想像することができませんでした。確かに彼らには、暴力行為はありました。しかし私は、彼らが10人を殺害するなんて、具体的に思い描くことなど出来ませんでした、とてもショックでした。

あなたは今、教師として働いています。あなたの経歴が職探しに、問題はありませんでしたか?

私は、職業訓練学校の校長に、私の極右だった過去を持ち、脱退しようと志していることを説明しました。彼は、私を拒もうとしました。でも、“Exit“が、私のために尽力してくれて、私は職業訓練を終了することが出来ました。幼稚園児の時は、全く問題ないことでした。すべての友達がそれを知っていたし、受け入れてくれていました。

その当時、幼稚園の親達はどんな反応をしましたか?

最初、私たちは、問題を引き起こさないために、他の親達には言いませんでした。ある日、一人の子供が私のところに来て、「君と、犬の写真が載っている(キャンプの)新聞記事を見た」と言いました。すぐに、私は両親に伝えました。すると両親は、「問題ないよ。あなたは、ちょっと目立ったことをしただけ。」と、私に言いました。

あなたは、最初、あなたの子供の頃は不幸であったと言っています。今、あなたは、幸せですか?

はい、幸せです。今、振り返ると、いかに当時の私が、ボロボロであったかが分かります。私が一体誰だったのか、自分でも分かっていませんでした。

そして、今は変わったのですか?

はい。今は、違う私です。

※ハイディ・ベネッンケンシュタイン

出生時の名は、「レデカー」。バイエルン州のとある村のナチ思想の家庭で育つ。今日、彼女は言う、「私は、抜け出せることが出来た」と。19歳の時、彼女は、同じ極右グループの彼と脱退した。夫婦は今、一人の息子と一匹の犬と、ミュンヘンに住んでいる。彼女は、まだ一人の妹と母とは、交流がある。この度、「一人のドイツ人の少女」を執筆。10月14日に、トロペン出版から発売されている。

※極右グループからの脱退

「脱退までに、数年を要した」と、脱退支援組織”Exit“の代表、ベルント・ヴァグナー氏は語る。「それは言葉では言い表せない。彼女は、ただ道具にされていただけと、人は思うだろう。」

2001年に発足以来、ドイツ全体で、極右グループから脱退者681人を、”Exit“ は支援してきた。今現在は、およそ40人を支援中。これまでに、再びグループに戻った脱退者は、16人だけ。脱退者の4分の1が女性である。

“Exit”は、最大の独立した脱退支援組織。しかし、連邦政府からの共同出資が行われている。並びに、憲法擁護庁、もしくは、地方内務相管轄の国家プログラムを並行して行っている。

先ごろ、ジャスミン・アプフェル氏(NPD代表のホルガー・アプフェル氏の妻。彼女は、NPD婦人連盟の代表も兼ねていた)が、極右グループから手を引いた。まず、彼女は夫と別れ、そして離党した。この春、彼女は、団体から脱退したことを公表した。彼女の4人の子供の将来を、察してのことだった。

※Heimattreue Deutsche Jugend(HDJ)

HDJは、キャンプに子供を集め、そこで、ナチ帝国についての教育を行い、もしくは、人種学を教えた。男子はグレーのシャツを、女子はブラウスと青いスカートを身につけた。2009年に組織は禁止された。最後には、400人のメンバーが参加したと言われる。HDJの幹部は、極右の経歴を持ち、NPD(ドイツ国家民主党)の連邦代表者に位置し、組織のPR活動を行った。


話;Heidi Benneckenstein  作;taz (2017)  訳;Yoko Yoshimoto


週6日営業 水曜定休

【配達時間】12:00〜15:45

【開店時間】16:00〜19:30

お問い合わせ ☎︎  053-461-2895 

​                〒430-0856  静岡県浜松市中区中島2-4-1 (有)平野酒店
           浜松ドイツワイン文化協会事務局