• Yoko Yoshimoto

「小さな男、、、なぜ?」

最終更新: 4月17日



・社会の屋台骨がくずれかかるといつも、「小さな男」が政治やメディアに大きく取り上げられる。

※「小さな男」とは、“小柄な男”の意味ではなく、特別際立った財産も、地位も、教育も持たない、社会の中の「平均的な人」を意味する。最近、世界的な貧富の格差や、非正規雇用の増大の背景の下、この「小さな男(=以下、理解しやすいために「小さな人々」と書くこととする)を警戒する声が聞かれる。彼らの被害者意識を、欧州で台頭する右翼ポピュリズムが利用し、外国人や難民に反感を向けるように煽動しているように見える。今回は、そんなお話。

その女性は、35年間フルタイムで掃除婦として働き、子供を育て上げ、やがて父親を介護し、そして癌になった。57歳からもらい始めた年金は735ユーロだった。「私は、あくせくと働いた。私だってバカはでない。これは不当だ!!」彼女の名は、スザンヌ・ノイマン。社会民主党は、彼女を議場に招待し、国民の声として取り上げた。一人の人間が、額に汗して働いたのにも関わらず、安堵して人生を締めくくれない。これは多くの人が感じているはず。スザンヌ・ノイマンさんは、その代表的な女性、そして今彼女は「小さな人々」の象徴として担ぎ出された。

社説や、国会、トーク番組で、そのことがテーマとなり、「小さな人々」のリアルな願いや困窮、そして心配が語られる。政治の力で、すべての人々が保証されるべき!しかし現実は、、、。ここ数日、この一人の「小さな女性」、ノイマンさんが報道されている。これは政治家にとって急務な課題である。2012年にも、一人の掃除婦の話がメディアに取り上げられた。ヘッセン州に住むマリアさんは、トーク番組でフルタイムの低賃金労働、そして少なすぎる年金の実態を話した。

自らを小さく見せる、そして、、、

この2人の掃除婦のニュースは、彼女たちの人生の業績だけではなく、彼女たちの真面目さ、そして、この社会に対する的確な異議を表し、メディアを動かし、人々に印象を残した。しかし、4年前のマリアさんの話の後でも、変化はわずかだった。そしてスザンヌ・ノイマンさんの報道も、そう大きな改善は見込まれないだろう。確かに「小さな人々」の実態は認識された。けれども、現在の「小さな人々」は、もっと広範囲に対象者を広げている。つまり、年金生活者たちだけの話ではない。

「小さな人々」は今や、非常に影響力の強い社会の象徴となった。その概念は、20世紀に生まれた。それは常に景況感と関わりがあり、社会的な屋台骨が崩れかかる時に、メディアのフレーズとなった。年金問題、自由貿易協定、難民危機、、、。どのくらい「小さな人々」のために、政治家たちは戦ってくれたのか。AFD党(ドイツの極右政党)副党首のアレキサンダー・ガウランド氏は、不当に取り扱われている「小さな人々」ために尽くしたいと訴える。左派党議員であるアンドレ・ブリ氏は最近、雑誌の取材に対し、「小さな人々は、政策の中だけでなく、我々の心の中にある」と語った。社会民主党党首シグマール・ガブリエル氏は、「我が党は、小さな人々にとっての保護供与国になるべきである」と語った。

政治家たちのさまざまな発言に対して、誰が正しい本当の「小さな人々」なのか?という疑問が湧いてくる。月並みな答えは、単純に彼らは市民階層の一部のことであり、それは中間層の下部と、下層階級の上部に位置している。彼らは、社会的に影響力が少なく、経済的に際立つ存在でない平均的な人々だ。まさしくこの平均的な人々は、毎日2杯のビールを飲み、1週間に41,9時間働き、そして1年間に500mlの涙を流すと、あるジャーナリストは、統計を面白おかしくこう分析している。しかしながら、そんな統計は、スザンヌ・ノイマンさんのような現実の人にとっては、当てはまらない。そんな架空の詩の様な集団的主観は政治の中で、どんな働きを起こすというのか。なぜ私たちは、彼らについてこうも話題にするのか?

「小さな人々」のスタイルは、一つの文学作品の中に見ることができる。それは1932年のハンス・ファルダ著、「小さな男、でどうする?」に登場する主人公ピンネベルクだ。映画では、俳優ハインツ・リューマン氏がその役を演じた。最近では、テレビのコメディー番組で、ビヤーネ・メデル氏が演じている。

脚色によって様々な切り口があるから、演技するものによって違いの出るのは当然である。ただ彼の作品には、いつも詐欺と裏切りの要素が含まれる。小さな男は、汗水垂らして働き、転んでも立ち上がり、しかし小さくしか見なされず、影で笑われ、そして利用される。彼の行動は、いつも不運である。小さな男は、障壁を乗り越えられない。彼の悲運の原因はここにある。彼はいつも苦情や不平をつぶやき、集団的意識を持たず、行動に移す訳でもなく、反乱を起こす訳でもない。これに似たものに、1930年のジークフリード著、「サラリーマン」の中でいくつか描写されている。ここでは、台頭する成果主義とその結末が描かれている。確かにそれはプロレタリアート(無産階級)を支配するものと似てはいるが、しかし、それとの違いは、彼らは上を見ることを恐れ、最後まで他人に道を教えてもらいながら生きていく。別な言い方を使うと、「小さな人々」は社会の中に不遇に組み込まれたことに甘んじて、自覚している労働者なのである。掃除婦のスザンヌ・ノイマンさんの様な女性もその一人であり、象徴的に自分自身で落ちていくポストモダンのプレカリアート、現代で例えるなら、非正規雇用者、失業者を連想させる。

もう1つの「小さな人々」の視点は、2重階級の意識である。それは、エリートなどの、自分たちよりも上の階級との区別である。そこでは彼らは、自ら進んで劣った自意識に悩む。彼らは、更に下向きに、あるいは、外側に立つ。もう騙されないという意識は、過去の歴史的な革命の中だけに生じる話ではなく、今は国民の考え方の中に、人種差別的な、怖すぎるほどの純粋な妄想でもって、社会の中に芽生えてきている。その矛先は、外国人、異教徒、そして寄生者であり、まずそれらを一番に除外する。それにより、自分の分け前が取り戻せられるのだと。そして、これが正しい理由ではないのだが、なぜAfD(ドイツの極右政党)が、国民戦線(フランスの極右政党)が、あるいはドナルド・トランプ氏が今、成功を収めているか、そしてFPÖ(オーストリアの極右政党)のノルベルト・ホーファー氏が、なぜオーストリアの大統領選挙で、労働者から86%の票を得たのか、、、。

自らを軽蔑する

精神分析家ヴィルヘルム・ライヒ氏(1897-1957)が、ナチから逃れて来た、あるいは、社会主義者から追われてきた、はたまた第二の故郷、アメリカから圧力が掛けられた人々の心理をこう綴っている。「君は、私の前で泣いて不平を言う、そして君の憧れも虚しく、権力者によって支配される。しかし君自身は、ものが言えない。世界の首都での数々の革命は、自由を約束するけれども、小さな人々は、最終的には空クジを引く。君のパリは、ペタンとラヴァル(ヴィシー政権)で終わる、君のウイーンは、ヒトラーで終わる、君のロシアは、スターリンで終わる、そして君のアメリカは、KKK政権で終わる」と。自分自身自由になる代わりに、「小さな人々」は、最終的にはいつも奴隷化させられた。なぜか?なぜなら彼らは、国や人種、あるいは、宗教を美徳化して、フラストレーションを矮小化してくれる金持ちに着くから。「君は自分自身を知らぬ間に蔑んでいる。」

「小さな人々」の社会偶像は、全くどっちつかずのもの、もしくは、沈黙の過半数と呼ばれる。それは自己暗示されたある特定の人々の集まりに見える。つまり実際は、言葉上に作られた一つの妄想の集団意志なのである。だから「小さな人々」は、よく修辞学上のコスチュームとして使われる。各々がそれを自分で被り、被害者であることを名乗り始める。

例えば、AfD党は、「小さな人々」の面倒を見ると誓う。しかしながら、AfD支持者の大半が、経済的には裕福な人たちであることを、ケルンのドイツ経済研究所が最近明らかにした。自分自身を「小さな人々」として装い、騙されたという個別の気持ちを市民に与え、偽りの保証を正当化する。そして、難民施設の前で「私たちは国民だ」と叫ばせる。いみじくもヴィルヘルム・ライヒは書いている、「君は国民でもなく、小さな人々でもない。君は国民を軽蔑する人だ。というのも、君は国民の権利ではなく、自分のキャリアばかりを気にしているから」と。


作;Nils Markwaldt (2016) 訳;Yoko Yoshimoto 協力;Werner Zitzel

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