• Yoko Yoshimoto

「土が生きるためには(前編)」



この会場にいる皆さんは、野菜を作ったり、庭作りをしたり、もしくは、農業を経営していたり、林業をしていたりしているかと思います。では、私たちは、土で何をしていますか?私たちは、どのような場所で、土と関わっているでしょうか?それを今、明確にしていきたいと思います。そこには、自然のプロセスがあります。自然のプロセスとは、ある一つの植物が、ある方法で育ち、多くの種が栄えていくことです。ここに、一本の大きな木があるとします。その葉が、いずれ土に落ちます。やがて、それは、素晴らしい腐植土となり、地下には根が張っていきます。しかし、いつの日か、その木は枯れます。太古のナラの木ですら、数百年後には枯れます。でも、何百年かけて、再びそれは、いつの日か、有機物質を含んだ腐植土へと変わります。そして、再び新しい命が生まれます。その生まれた植物は、一年目の冬を迎えます。そして、初めての霜や氷に埋もれます。でも、春には再び芽を出します。それが、自然のプロセスです。それは、とても不思議で、面白い。私たちは、そこで多くを学びます。

しかし、それは、私たちのプロセスとは違います。私たちは、違うことをしていますし、また、違うことをしなくてはなりません。つまり、私たちは、自然のプロセスではなく、農業というプロセスをしているのです。そこで、私たちは、食物を作ります。それは、自然のプロセスの中では、全く予定されていません。たとえば、一羽の鳥が立ち寄り、一粒の種をついばみます。しかし、それ以上のことは起こりません。あるいは、一頭の鹿が、何かを食べても同じです。何も起こりません。しかし、そこに何かを置いていきます。鳥であれば、もしかしたら、一枚の羽を落とすかもしれません。それが、自然に帰ると、素晴らしい肥料になります。それは、自然のプロセスです。しかし、私たちは、全く違うことをします。ここで、混同しないように、はっきりさせておく必要があるのです。まず始めに、植物があります。それは、育っていきます。それは、一つの植物ですか?それは、キャベツだけですか?大麦だけですか?自然界には、多種多様な植物があります。それは、いつも同じではありません。それが、自然のプロセスです。ところが、人は自分の植えたいものを、植えたい場所に、植える事ができます。人類がどのように農業を発見したかを考えると、たとえば、「バビロフの遺伝子中心説」や、「肥沃な三日月地帯」を挙げる人がいるでしょう。いかに人類が、草地から、あるいは、原植物から、穀類を選り分けたのか?これは、大きな謎です。栽培植物や家畜だけでなく、耕作地そのものの始まりは、どこにも書かれていません。すると、何となくそれはあまり重要ではないのではないかと思ってしまいます。しかし、それは違います。まずは、人間がいて、そして、常に、さまざまな木製の鍬やその他の農具があって、土を耕します。土地を開くとは何でしょう?それは、空気と光を土の中に入れることです。遮るものを取り除き、そこに、新しいものを入れること、決まったものだけを育てることを考える、それが耕作です。私は、土を最低限しか耕さない主義です。私は、出来るだけ深く鋤で土を耕します。それも、1年に1回、あるいは、2回しか耕しません。でも、これを鵜呑みにしないで下さい。あなたの持つ土が、今、あなたの目的に合っているかを考えなくてはなりません。数多く耕し、深く掘り下げず、平らにするとしても、それもまた、耕作地です。しかし、耕作の仕方が、いかに土と関係しているかを、明確にしなければなりません。それが、ヴィオディナミ農法の原則としての耕作、つまり、健全な農業としての耕作です。

私たちは、人間の食物としての有機体を栽培するだけでなく、家畜の餌(=肥料)や、間作植物など、個々の農園に合うバランスを保ちながら、さらに、それらを販売に結び付けていかなくてはなりません。しかし、どの農園で、それに合う作物だけを作るかというバランスは、まだ十分な実地研究がされていません。現在、農地の95%が、家畜の餌を生産しています。それは、この30〜40年以内に、もっと増えることが予測されます。この問題の解決は、外部の腐敗した経済的な関係と結びついている、現在の農業界では、全く不可能と言っていいでしょう。私たちの仕事の基盤は何かを、ここでもう一度はっきりさせなければなりません。私たちの仕事は、何と呼べばいいのでしょうか?今後、どのくらいの数の事業がなくなり、どのくらい、この産業の中で残っていくのでしょうか?今、肥料を作る業種が増えています。家畜には、どのくらいの餌が必要なのでしょう?実際にその餌は、かなり早く、肥料に変わります。つまり、牛の腸を通って、1〜2日で糞に変わります。しかし、私たち農家は、それを1年に1〜2回しか使いません。このことを、農業研修の中では、はっきりと指摘していません。確かに、肥料を作り、管理することは、農作業の1つです。糞は、毎日出ます。しかし、私たちは、それを1年に1〜2回しか使っていないのです。例えば、コンポストを作ることは、第一に、豊作にさせるための努力であり、それは常に農家が気にかけていることです。だから、肥料を1年に1〜2回しか使わないことは分かっているはずです。それは、人間がしてきた農業の歴史です。それは、農業の事実なのです。もちろん、それは単なる牛糞ではありません。夏場の農地を見ると分かります。それは、ただ単に数週間、そのまま放置され、表面が乾いているだけ。そこに、ゆっくりと分解してくれる微生物はいません。それは、単に乾いていたるだけです。それが、いわゆる自然のプロセスです。そして、今、私たちがしているのは、仕事としての農業のプロセスです。コンポストを作る事は、毎日生じる農業の仕事、それは、牛糞から肥料へと作り変える事。それは、自然のプロセスでは、生まれません。では、肥料を作るとは何でしょうか?一頭の雌牛のいる所に、糞がその下に落ちていて、それを重ねて山にして、雨に濡れぬように覆います。私達は今、このやり方をするのではなく、完全に的を射た、狙い通りのヴィディナミのコンポスト調剤を使っています。

この話はまた、別の機会を待ちたいと思います。今からお話しするテーマは、ヴィオディナミの意識の中にないと、そう簡単には理解できない内容です。先ほど、お話し致しましたように、耕作地は、人間によって作られました。そこから、1ステップ遡ります。一体、土はどこから生じるのでしょうか?ミネラルから?石から?あるいは、植物が、光を使って作ったものから?答えは、石と光です。私たちの周りに見えているものです。しかし、まず、土のない場所を見に行かなくてはなりません。そのような場所は、ほぼ、この世界にはありません。でも、高い山脈に登ってみましょう。そこは、ほぼ毎日、霜に覆われています。しかし、1年のうちの2、3ヶ月は、霜が消える時期があります。すると、その岩盤は、少し緑色になります。グレーがかった緑の膜が張ったような緑色です。それは、藻や苔です。すると、そこから信じられない速さで、生物が生まれます。信じられないパワーと活力で。それら、すべては、石と光から由来するものなのです。

これに関連して、修道僧のお話しをしたいと思います。彼らは、耕作について、特別な理解があって、今日の私たちの農業に通じる一つの流れを作り出しました。彼らは、その能力を持っていましたし、また、その能力を使うことができました。つまり、豊作にすること、その土地を永続的に豊かにすることができたのです。それは、自然のプロセスでは出来ないことです。11〜12世紀に、ある修道会派の僧たちが、岩だけの土地や、沼地など、痩せていてとても耕作できない、誰も足を踏み入れないような土地を開拓しました。農業の方法は、中世のヨーロッパの素晴らしい修道僧たちが作ったのです。彼らは、不毛の地を豊作の土地に作り変えただけでなく、その後、数百年間、肥沃な土地を維持し、農業の革新を押し進めました。つまり、彼らは、農業の発展の機動力となったのです。その仕事は、想像を超える重労働で、彼らの平均寿命は、30歳にも満たなかったと言われています。それと同時に、彼らの住む修道院の建物も、素晴らしく発展させました。それは、石です。彼らは石を集めてきて、それを材料にして建物を作りました。石は、彼らの、ありのままの素朴な聡明さの中に、共にありました。彼らの住む建物は、他のキリスト教徒とは違って、全く粗野なもので、豪華な装飾や、美しい色合いなどは、全くありませんでした。それらは、彼らにとって、必要のないものでした。その代わりに、素晴らしく調和の取れた建物だったのです。それは、今日私たちが見ても驚かされます。しかし、その建物自体は、当時の修道僧にとって、それほど大切ではなかったと、私は思います。彼らが最も大切にしたものは、歌うための空間でした。彼らは、毎日その建物の中に集まり、差し込む光の中、音楽を奏で、歌いました。そこから、働く力をもらいました。彼らが感じたことを、そこに実行し、日々の成果に手応えを感じていたはずです。ここに、彼らの偉大なるリーダーの一人、聖ベルナルドのある有名な格言があります。「君たちは、キリスト教の多くの書物よりも、岩塊から大きな奇跡を体験するだろう。君たちは、岩塊から、油と蜂蜜を採取できることを知るだろう。」これは、おそらくこの世に存在する最も偉大な言葉ではないでしょうか?これは、人が想像することの出来る、最も大きな奇跡ではないでしょうか?つまり、岩塊は、豊作を生むということです。南フランスまで下れば、オリーブの木を植えることが出来ます。それで、油を採取することができます。やがて、牧草地を作り、草花が芽生え、花が咲き、ミツバチが集まり、花粉を運び、人は、蜂蜜を得ることが出来ます。油と蜂蜜というものは、特別な食品と言えます。私はここで、我々の先祖とも言える、また、我々の手本でもある、修道僧の文化的な遺産を伝えたかったのです。もし、皆さんが、休暇を取れたならば、そして、旅行をするならば、あるいは、何らかの旅のガイドを探すのなら、この地域がいい。そうすれば、その意味が分かります。君たちは、以前、修道院だった建物や遺跡を見て、その周りの500m〜1km圏内に、何か違うものを、そして、おそらく建物自体の中に、何か輝くものを、ある一つの何らかの力を感じることが出来ると思います。私は、そのような場所から、何倍もの力を与えられました。それを私は、皆さんに、少しでも感じて欲しいのです。

私が言いたいことは、もし、土の豊さを観点に置くのならば、あまりにも軽視されてきた動機のことです。それは全て、そこからきます。私たちは、土より先に、まず石と光を見なくてはいけません。そして次に、土の命です。それは、物質に囲まれた私たちのいる場所では、到底想像の出来ないことです。今から私たちは、命の中身へと入っていきます。私たちは、全くそこを避けて通れません。まず、私たちは、そこでバクテリアの存在を知ります。そして、そこに根が伸びて、ミミズが通るかもしれません。その他に、ダンゴムシなどの虫たちが、次々と通っていきます。では、誰が、土の中の命を作るのでしょうか?岩塊の上にいるのでしょうか?最初に苔が生えると同時に既に、そんな植物の周りにいるのでしょうか?土そのものが生きていると、考えてはいけません。それは馬鹿げた考えです。世界のどこにも、土自体が生きている場所はありません。もし、土を2〜3年、ほったらかしにしたのなら、全ての植物の命は、生きていけません。土が作られなくなり、すぐになくなってしまいます。観察すると分かるのです、植物から土が作られることが。これこそ、ルドルフ・シュタイナー氏の、驚くべく概念。その言葉を、農業の授業で使うといいでしょう。その言葉を、マーカーで、トラクターの運転席の上かどこかに書くといいでしょう。もし誰かが文句を言っても、構わずにいましょう。そう、マーカーで、「土と植物は、共に育つ」と書くのです。それについて、もう一度、その概念について考察しますと、土が勝手に育つかのようなことは、有り得ません。土なしで、植物を考えることは出来ませんが、植物なしで、土を考えることは、私には出来ないです。つまり、それらが共に育つということなのです。それに、ピンとこない人もいます。でも私は、それを30年間、繰り返し、飴玉でもしゃぶるかの様に言ってきました。やがて、植物のことと、土のことを、一緒に理解出来るようになります。

植物は、太陽の光の恵みから、生み出されます。それは、素晴らしいものです。春の季節に、できるだけ素直に、できるだけ純粋に、できるだけ自由な感性で、外に出て見て下さい。すると、すぐに理解できるでしょう。太陽は、植物を惹きつけています。その植物は、土から生えています。土は、植物を生かすことができます。土が無くても、太陽は、輝き、暖を与え、鳥たちはさえずります。でも、土が無ければ、植物は存在しないでしょう。そこには、何も生まれません。人は、種に水を与えることはできます。でも、コンクリートの上や、ガラス板の上、金属の上では、どうでしょう?全く何も生まれません。土と植物は、共にあるのです。その力と可能性と能力を持った土を、取り去った瞬間に、そこには何も生まれてきません。土を通して、植物が育つのです。春から夏にかけて、上へ上へと伸びていきます。やがて、秋になり、例えば、小麦が収穫され、その小麦がパン屋へと運ばれます。秋には、春とは全く違ったプロセス、つまり、消化や吸収や分解、そして、再び集結するというプロセスが、植物の中に起きます。そこには、いつもと同じ成長があり、いつもと同じリズムがあり、いつもと同じプロセスがあります。それは、原始から続くリズムです。例えば、私たちが、最も簡単に理解できるリズムは、年間のリズムでしょう。その年間のリズムと、土の命とを同時に見ないと、何も理解できません。それは、基本中の基本です。でも、それに関わるすべての解離や結合について、もしくは、ミネラルのことを知る必要はありません。無論、知っているに越したことはないですけれども。それより、大切なことは、リズムのこと。でも、残念ながら、本の中で、大学で、それを学びません。だから、自分で覚えなくてはなりません。観察して、観察して、再び調べて、そして、また観察するのです。そして、仲間と意見を交換し、お互いに助け合うのです。例えば、今年、私はそれに気づいたこと、そして、どうなったかを話し合うのです。例えば、今は、湿度が高い、いや、私の畑では、もうずいぶん前から、湿度が高い、では、それにどのように対処をするのかなどの、意見を交換し合うのです。つまり、畑全体を、その地区全体を、積極的に、繰り返し、新しい目で見て、試してみるのです。個々の敏感な意識をもって、土と植物が一緒に成長するという、そのプロセスの中に入ってみることです。

さて、次のテーマに移ります。「石灰が豊富な」とは、何でしょう?「珪酸が豊富な」とは、何でしょう?今からは、石灰と珪素を含んだ土のお話です。そう聞くと、まずは、化学を学ばなければいけないと思うでしょう。鉱物や、物理に関連したことを、学ばなければならないとお考えになるでしょう。でも、皆さんは、農業の授業の最初の講義で、それらに少しだけ触れています。でも、それは、ただ表の上で学んだだけ。一番上から一番下まで、さらりと目を通しただけのこと。でも、私たちは、土に携わる職業である以上、それを知らなくてはならなりません。もちろん、それは、表で示したようなものでなく、何かのプロセスに関することです。それは、何でしょう?たとえば、皆さんが今、数日休暇に出かけたとしましょう。そして、山脈に登ります。たとえば、バーゼルとか、あるいは、シュヴァルツヴァルトとかに行ったとしましょう。すると、そこでは、基盤岩を見ることが出来ます。その上に石灰岩が見えます。例えば、カルクアルペン、もしくは、スイスのオーバーランドなどに行ってみるといいでしょう。そこで、数時間散歩をします。一日掛けて、あるいは、二日掛けて歩いてみます。そこにも、基盤岩が見られます。そこは、地上とは全く別な世界が広がります。その世界とは、どんな世界でしょう?つまり、地下にあるミネラルの元、土の元となるもの。つまり、原生の土。自ずと、その世界に、私たちは入り込んでいきます。最初は知らなくとも、自然の中に立ち、少し観察し、いくつかの基準を発見すれば、比較的早くに理解できます。それが、石灰岩の大地、あるいは、基盤岩の大地であるということが。そこは、ただ植物だけの、そして、ただ土だけのプロセスではないということがわかるはずです。つまり、石灰岩の上に土があるということです。一番上に、何があるでしょう?実に素晴らしい、深くて黒くて平らな土、つまり、レンジナ(土壌型の一つ。石灰質材料から発達した土壌)です。それは、庭土のようなもの。平らで、いつも乾いています。ゆえに、水が常に中へと染み込んでいきます。それは、地下に石灰岩があるからです。その土には、常に水が貯まりません。今は、ちょうど夏ですね。たとえば、スイスの渓谷には、毎日数千人の観光客が来ます。そこで、水が崖を侵食している景観を見ます。そこには、肩の高さまで石灰岩が見られます。そこに、小さな割れ目が作られます。誰も手を加えていないのに、小さな割れ目ができています。そして、そこには、黒い土が詰まっています。そんな、とても小さな割れ目の中に、どのようにして土が出来たのでしょう?それは、とても素晴らしい黒い土。黒く、素晴らしい、香りのある、レンジナです。それが、石灰岩の上に存在する土。しかし、そこでは、植物がそれほど成長しません。常に、水が不足しているからです。30年前、私が未熟で、まだ理解していなかった時、農民たちは、その土に堆肥をまかなければならないと思い込んでいました。昔の農民たちは、この土のことを、「家畜糞を食う土」と呼んでいたそうです。これは、全く無意味なことです。適正な量のコンポストを、手で撒くだけで、十分、土に浸透させることが出来るのに。多量の家畜の糞尿堆肥を撒くことは、全く馬鹿らしいことです。(後編に続く)


作;Martin von Mackensen (2018,10,29) 訳;Yoko Yoshimoto 協力;Werner Zitzl

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