• Yoko Yoshimoto

「ベートーヴェンは、手強い取引相手だった」

最終更新: 6月2日



・2019年に、音楽出版社のブライトコップフ&ヘルテル社が、創業300年を迎えた。そして、2020年は、ご存知の様にベートーヴェン生誕250年記念。しかし、この2つの記念祭は、単に偶然重なった訳ではなく、この両者は、互いに深く関わり合っていた。

・1719年にライプツィヒで創業したこの出版社と、1770年に生まれた作曲家は、数年の間、商売関係にあった。ベートーヴェンの中頃の作品、交響曲第5番や、チェロソナタ69番は、ブライトコップフ&ヘルテル社によって初めて出版された。

・ここでは、音楽出版業界に残る長い年代記を元にして、この会社が、いかにベートーヴェンと深く関わり、重要なドイツの出版社であったかを読み解いていく。今回は、ブライトコップフ&ヘルテル社の原稿審査担当者のトーマス・フレンツェル氏とのインタビュー。

Q;当時、音楽出版社は、数多くあったと聞きます。それは、数百社とも言われています。また、ベートーヴェンは、フランスやイギリスの出版社とも接点があったと聞きます。御社とベートーヴェンとは、どの様な取引があったのですか?

A;当時の取引は、今と違って、とても不完全な著作権が存在していました。作曲家たちが、その著作権を使うことが出来ました。つまり、どの作曲家も、外国の出版社を探して、販路を広げました。ベートーヴェンとブライトコップフ社の歴史は、波乱に富んだものでした。その歴史は、1795年、ゴットフリード・クリストーフ・ヘルテル氏が、社長に就任した時から始まりました。当初の経営は不安定でしたが、全集版や音楽雑誌を発売することで、やがて上向きに安定してきました。ウィーンにも進出して、ハイドンや、モーツァルトの妻との接点もありました。つまり、ヘルテル氏は、ベートーヴェンにとても大きな興味を持っていて、彼と手を組みたいと模索していたのです。

Q;もし、今日でも、偉大なる作曲家と手を組んで、特別な印刷を引き受けたいものでしょうね?

A;いや、そうとも言えないのです。その両者の取引は、およそ10年続きました。その間に、ベートーヴェンのとても重要な作品である作品番号67〜86番を出版しました。当時の交渉は文書で行われました。それらの手紙は、残念ながら保存されていないそうです。年代記によると、1801年にベートーヴェンは、出版の交渉に応じています。しかし、その後の10年間は、彼との激しい交渉の戦いであったのです。ベートーヴェンは、出版社の提案に、そう易々とは応じてくれません。逆に出版社が嫌がる提案をしてきます。最終的には、彼は承諾します。そして、1810年、ブライトコップフ&ヘルテル社は、個々の作品の譲渡を皮切りに、大きな出版の契約、23作品以上を取りまとめました。

Q;ベートーヴェンが、一つの作品を譲渡すると、まず、どうなるのか、あるいは、何がおきたのか?つまり、それは、あなた方の場合、出版に漕ぎ着けるということですよね。作品は、譲渡され、印刷され、販売される。今日なら、著作権は、作者の死後70年までは保護されることになりますが、当時はそのようにはいかなかったのでは?

A;おっしゃる通りです。1808〜1811年頃のウィーンは、大きな戦争のあった時代であり、貨幣価値も落ちていました。しかし、ベートーヴェンの作品は、単なる印刷をしてくれる出版社を探すことだけでなく、強い通貨を選択することが出来たのです。つまり、どんな公演会に価値があるかを見抜き、その当時のウィーンの複雑な経済状況を利用して、彼の作品は、何倍にもいい値がついたのです。ベートーヴェンは、演奏の契約権を利用して、様々な出版社を外国から探しました。よって、ブライトコップフ社の持つ多くの楽譜は、価値がなくなってしまったのです。

Q;貴社の歴史から読み解くと、ベートーヴェン は、手強い交渉相手であったようですね。

A;彼は、手強い交渉相手でした。彼は、他の多くの出版社にとっても、楽な取引相手ではありませんでした。交渉の際、彼はよく不平不満をぶちまけました。彼は、ブライトコップフ社のことは気に入っていました。けれど、軽率な主張を繰り広げました。しかし、私は、ここで申しておきたいのですが、ヘルテル氏は常に、とてもプロフェッショナルな態度を取りました。彼は、あらゆる形で、ベートーヴェンの理不尽な主張を跳ね除けました。そして、こういう文書を送ります。「敬愛なるベートーヴェン殿、あなたのおっしゃることはよく分かります。しかし、私の名誉を傷つけたことを、まずあなたは気が付かなければなりません」と。すると、ベートーヴェンは、主張を取り下げたのです。ハイドンの伝記を書いたアウグスト・グリージンガー氏が、ウィーンでの交渉の基本的なことを、ヘルテル氏に伝授しています。グリージンガー氏が、ヘルテル氏に宛てた手紙には、「親愛なるヘルテル氏へ。ベートーヴェン氏への手紙を書く時は、相手を褒め上げて書きなさい。芸術家というものは、とかく怒りっぽいものなのですから」と。

Q;ところで、貴社は、第一次大戦前、最高で数千人の従業員を擁していました。しかし、今日は60人です。その点について、お伺いしたいのですが?

A;私たちは2週間前に、創業300年記念について、小さな会議を行いました。その際に、我が社の数世紀に渡る業績も議題になりました。状況は、現在とは全く異なっていました。当社は1913年に、新しい印刷所を伴った社屋が落成し、開業しました。それはもう大きな印刷会社でした。当時は、書籍販売業界の大会社のブライトコップフと言われていました。楽譜出版だけでなく、文学作品、専門書など、他分野に渡り出版をしていました。長年に渡り、大口の委託を取り付けました。例えば、インゼル出版の書籍は、ブライトコップフ社が印刷していました。というのも、インゼル出版は、印刷部門を設けていなかったからです。ライプツィッヒでは、ブライトコップフ社と、ブロックハウス社が、自社出版が可能な巨大な出版社でした。それゆえに、多くの従業員を抱えるまでになったのです。しかし、戦後の1952年、財閥の解体によって、当時あった43カ所の印刷所は解体され、一部を残すのみとなり、現在の従業員は60名となったのです。今の業務は、作曲家や古い作品の発掘、メディア関係の印刷販売などに集約しています。

Q;しかしながら、長い歴史を誇るブライトコップ社こその、名誉ある仕事も受け持っているでしょう?

A;はい。今現在、グスタフマーラーの作品の編集と出版を受け持っています。資料、スコア、練習用スコアなどを含む、いわゆる全集版です。それらは、音楽家や学者たちに役立つことでしょう。ここで、ベートーヴェンの全集版についてもお話したいのですが。

Q;それは、ベートーヴェンの作品を全て収集するということを意識した、先駆けの出版であったかと思います。

A;はい、それは再び、著作権の話になります。最初の全集版は、1850〜51年のバッハの作品でした。ベートーヴェンの作品は、その12年後に始まりました。1871年のドイツ帝国統一の前には、国内の君主国によって当然、著作権の概念は異なっていました。そうした中でも、ブライトコップフ・ヘルテル社は、最初の本当の許可を得たベートーヴェン全集版を完成させ、その権利を主張しました。それは、2年から2年半という短い間に為されたのです。また、未刊行の作品に関しても、収集し続けました。やがて、プロセイン王国やザクセン王国などで、著作権が切れる時期が来ると、全集版を除いた他の作品を売却しました。

Q;そして、今日まで貴社の活動は続いているということですね?

A;原則的には。でも、なかなか経営というものは大変です。大戦後、つまり1945年以降、全集版の路線でいくには困難でした。よって他の印刷も行っています。そして、今現在、ブライトコップフ社は、3つの全集版を持っています。メンデルスゾーンと、ジャン・シベリウス、そして、ハンス・アイスラーの全集版です。



作;Raoul Möhrchen(2019,12,30) 話;Thomas Frenzel 訳;Yoko Yoshimoto

協力;Werner Zitzl


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